ソウルとリズム

確か、絲山秋子さんは「文章に不可欠な条件はソウルとリズム」と言っていた。
ソウルがあってもリズムがなければ読めないし、リズムがあってもソウルが
なければ読めない。名文の条件はその双方を持っていることであると。

その絲山さんの一番最近の作品『ばかもの』は方言の使いまわし
も含めて、間違いなくその条件をクリアしていたし(作品ごとに
リズム感が増している気がする)、確かに「ああ、いい文章だ」と
読んで感じるのは、リズム感が心地よくて、パッションに似た何かを
その文章から受け取れるときである。


ことリズム感に関して言えば、それは音楽的素養があるかどうかという
ことに限らない。もちろん、村上春樹町田康中原昌也古川日出男
のように、音楽に強くコミットした人たちのリズム感がいいのは
言うまでもないことだけれど、落語なんかの伝統的な話芸からそれを
体得している人だっているし、自ら体を動かす人たち(たとえば
料理人とか、ダンサーとか)が内なる感覚としてリズムを持っている
場合だってある。
個人的には、落語に通じている人たちの文章のリズムっていうのも
いいなと思う。例えば東海林さだおとか、当事者ですが立川談春とか。


その上で、ソウルがあるかどうか。
今度の村上春樹の小説に関して言えば、リズム感はあって
リーダビリティは高い。懇切丁寧な感じがするほどに。
でも、なんというか、つるっとした感触だった。
狙っているのかもわからないが、ひっかからない。情緒が情緒と
して存在しないというか、終始ゲーム的な感じがした。
物語の構築があまりに職人的で綿密で破綻のないところが、
私にはつるつると思えてしまう。作者自身のコントロール
及びすぎてしまっている、それがパッションというかソウルを
減じているように思えてしまったのだけど。