ソウルとリズム

確か、絲山秋子さんは「文章に不可欠な条件はソウルとリズム」と言っていた。
ソウルがあってもリズムがなければ読めないし、リズムがあってもソウルが
なければ読めない。名文の条件はその双方を持っていることであると。

その絲山さんの一番最近の作品『ばかもの』は方言の使いまわし
も含めて、間違いなくその条件をクリアしていたし(作品ごとに
リズム感が増している気がする)、確かに「ああ、いい文章だ」と
読んで感じるのは、リズム感が心地よくて、パッションに似た何かを
その文章から受け取れるときである。


ことリズム感に関して言えば、それは音楽的素養があるかどうかという
ことに限らない。もちろん、村上春樹町田康中原昌也古川日出男
のように、音楽に強くコミットした人たちのリズム感がいいのは
言うまでもないことだけれど、落語なんかの伝統的な話芸からそれを
体得している人だっているし、自ら体を動かす人たち(たとえば
料理人とか、ダンサーとか)が内なる感覚としてリズムを持っている
場合だってある。
個人的には、落語に通じている人たちの文章のリズムっていうのも
いいなと思う。例えば東海林さだおとか、当事者ですが立川談春とか。


その上で、ソウルがあるかどうか。
今度の村上春樹の小説に関して言えば、リズム感はあって
リーダビリティは高い。懇切丁寧な感じがするほどに。
でも、なんというか、つるっとした感触だった。
狙っているのかもわからないが、ひっかからない。情緒が情緒と
して存在しないというか、終始ゲーム的な感じがした。
物語の構築があまりに職人的で綿密で破綻のないところが、
私にはつるつると思えてしまう。作者自身のコントロール
及びすぎてしまっている、それがパッションというかソウルを
減じているように思えてしまったのだけど。

村上春樹『1Q84』と中央線と西荻窪

個人的に好きか嫌いかは別として、村上春樹の『1Q84
(あと2冊は続編が出るんだろうな)を読んでいて、
なじみ深い西荻窪の情景がふっと浮かんだ。
それは、村上作品には珍しく中央線沿線が舞台として
設定されていることとも無関係ではない。
(高円寺をはじめとして、三鷹荻窪も立川も固有名詞と
して出てくるのには驚いた)。

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1


この作品に登場する宗教団体「さきがけ」のモチーフ
オウム真理教をモデルとしているけだけど、
かつて西荻窪にはオウムの事務所があった。
駅前では、オウムが選挙演説をしていたことも覚えている。
そして、西荻には「さきがけ」の前身とされる
農業コミューンを思わせる場所だってある。
今は自然食品店としてすっかり街の人たちから愛されている
「長本兄弟商店」(通称ナモさん)。
2階にはバルタザールという自然食レストランがあり、
さらに3階には仏教関連などの本を多く取り扱う書店がある。


ここのご主人・長本さんは確か若かりし頃、コミューン
を作っていたと聞いたことがある。
今でこそ自然食ブームの流れにのって、健康に関心の
ある普通の人たちもやってくるような空間だけれど、
私が小さい頃なんて、ヒッピーを越えて宗教色
を感じて苦手だった。


それだけでなくて、最近、急増中なのが整体。
とにかくどこを見渡してもニョキニョキと増殖している。
オシャレカフェと古本屋を目当てにやってくる人には
目に入らないかもしれないけれど、よくもまあ商売が
成り立つなあというほどに整体が多いのだ。
そして整体って、やはり何かしら信仰に近いところがある。
治るかどうかは信じるかどうかしだいなところがあるし、
どれだけの腕の人がやっているのかよくわからない。


そう思うと、西荻っていう街の空間には何かしら不思議な、
宗教と連続性を持つ磁場のようなものが今もある気がする。
表面はオシャレ(最近、若いカップルの多いこと!)でも、
よく目をこらしてみると、「ヨガ」「自然食」「整体」
「コミューン」「チベット仏教」というキーワードが
街の中に浮かぶ。それぞれが自然なかたちで溶け込んで
いるから、どれも違和感なく中央線カルチャーの文脈で
読めてしまうのだけど。


1984」と「1Q84」という2つの世界は、西荻の表の顔
と裏の顔と、私の中でつながる。

再読 武田百合子

「2人の人から同じ本を薦められたら、その本を買って読むことにしている」
と言う彼氏の本のセレクト基準を聞いて、うーん主体性がない選び方だなどと
思ったものの、実は私も無意識のうちにそうやってある本を手にしていた
ことに気づいた。


富士日記〈上〉 (中公文庫)

それが、武田百合子の『富士日記』。
武田百合子といえば、作家・武田泰淳の妻であり、
写真家・武田花の母である。
表表紙を開くと、無造作な結わえ髪にタバコをくゆらせる
彼女のプロフィール写真がのっている。
私に『富士日記』を薦めたひとりは、
「作家の顔に惹かれなければその人の作品を読まない」と言い、
彼女がそうして読むようになった好きな作家のひとりが水村美苗であり、
そして武田百合子なのだ。



武田百合子は作家になるべくしてなった人だと思うが、
作家になろうとしてなった人ではない。
それは『富士日記』が世に出ることになった経緯(いきさつ)からして、そう。
泰淳と百合子夫妻は、ある日から赤坂と富士山近くに建てた別荘とを頻繁に
行き来する生活を送るようになる。そして、富士での生活こそが中心になっていく。
その富士での生活の記録を、百合子が中心となって(初期には泰淳も、時に娘の
花も筆をとる)日記に記す。それが、泰淳が死ぬまでの13年分。


朝・昼・夜何を作り何を食べ、今日の富士の景色はどうであったか、
編集者との原稿のやりとり、近くに住み始めた大岡昇平夫妻との交際……。
記されるのは日記そのものなのに、男っぽくて飾らない百合子の人柄と、
よけいな装飾句などつけずに見たままを記す(エゴのない)文体は、
読むうちに不思議と癖になる。
そして、生活の中の日々の変化が、それだけにいっそう胸に響いたりする。


たとえば、飼い犬のポコが死んでしまう中巻の描写。

トランクを開けて犬をみたとき、私の頭の上の空が真青で。
私はずっと忘れないだろうなあ。犬が死んでいるのを見つけたとき、
空が真青で。」(p.160)
「旧道を帰る。広い稲田の中を走っていると、鋼のような青い空に
入道雲がそそり立っている。気が遠くなってくる昼間だ。犬が
死んだことが、たとえようもなく、わけもなく悲しい」(p.166)

百合子さんの五感が研ぎ澄まされて、彼女の目に映るもの、
耳に響くものすべての描写が、ぐっと迫ってくる。


石川直樹 写真集 Mt.Fuji
ちなみに石川直樹さんも、富士日記ファンのひとり。

雑誌のカタチ

若い人は雑誌にはもはや興味がないとか、
携帯とネットの影響で本だって読まないとか、
出版不況の原因は根拠のない説明によって
説明されがちだけれど、それって本当に根拠がない。
ひとえにコンテンツ作りの力の不足が原因だろうに。


「活字を読む世代はもはや限られているから、
そこに向けて球を投げ続けることが大切だ」
というのは、死に行く世代のことしか考えていない
ものづくりだ。
作り手がワクワクしなければ、読み手にとっても
ワクワクするものなんて生まれない。
作り手が若いのであれば、若い感性で勝負できる
場(雑誌)がなければ、老年世代の感性にムリに
でも若手があわせるという不毛なエネルギーの
使い方が生まれるばかりだ。


結局そうやって作り手と読み手とのギャップが広がる
ほどに、そのつまらなさは読み手にも伝わって、
売れるはずのものもますます売れなくなる。
そして、雑誌を作りたいから編集者になりたい
なんて若い人もますますいなくなる。
(これはテレビだって新聞だって同じかも)
つまるところ、こうして雑誌はつまらなくなった
んじゃないんだろうか。


ロングセラー『思考の整理学』の外山滋比古さんの
『新エディターシップ』には、
優れたエディターシップを持つ人こそが、新たな
文化を創造すると書かれている。

新エディターシップ

新エディターシップ

それは何も編集者に限らず、外交官や通訳、デザイナーなど
断片的な素材をつなぎあわせ、統合する作用によって
創造的な活動を行う人すべてのことを指している。
少し前には最相葉月さんが、日経新聞のプロムナード欄に
「これからはますす編集者の役割が増すだろう」と書いていた。
編集者というかたちで仕事が存在し続けるかどうかは別と
して、私もエディターシップの必要性は増しているように感じる。